余生

けっこう大きめの節目だし、と、すごーく久々なブログを引っ張り出してきました。

そもそも書いてある記事数じたいが少ないんだけども、意外と読める文章だったので恥ずかしながらも残したいし、残していこうと思いました。

 

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ここで30年目の人生となりました。

年を取ることがすごく嫌だったけど、なんだか今は否定的な気持ちはない。不思議。

 

20歳を迎えたとき、成人と言われるにふさわしい人間であろう、行動に責任を持った大人であろう、と思ったことをよく覚えている。

10代を抜けたばかりの自分には成人という二文字がすごく大きくて、重たくて、自分には持て余す称号だった。それでもその年数を生きたのだから、成人したんだから、子供でいてはいけない、大人にならなければはらない、と、自分を律して生きてきた……と思う。そうやって戒めてきたはずなのに、人生30週年を迎えてなおまだまだ自分は幼くてワガママで自分が恥ずかしくて、生きた年数にふさわしい人間になれた自信がまるでない。だらだら時間を食いつぶして生きちゃったな。美味しかったような気がするけど、どうだろう。

年齢に見合った人間になりたいってずっと思ってたはずなのに、振り返ると全然そんなことできてないな。時間、こんなに短かったんだな。

自分はもう子供ではない、と思う。でも、私は大人になれてるよって、20歳の私に自信を持って言えるような大人に果たしてなれているのだろうか。もし会話できたとしたら、そうだな……家のこととか人間関係のこととか仕事のこととか、たくさん心がつらかったね。でもごめんね、そこから10年経ってもまだまだつらいこといっぱいあるよ。そう生きちゃったよ、ごめんね。……なんて、謝罪案件になっちゃうな。

 

それでも、何も得てない時間じゃなかった、と思う。

私の周りには素敵な人たちが多くて、色んな人に教えられ、導かれ、育てられてきたなと思います。色んな出会いがあった。楽しい人、嫌いな人、意地悪な人、大切な人、尊敬する人。それぞれから勝手に学びを得たし、叱ってくれる人から学べることも大きかった

だから、そんな周囲の素敵な人たちぶんだけは、成長できてることに自信を持ってたいなと思います。

 

やっと文章を頭に戻せるよ。久々に文章を作るものだから、回り道の塩梅が難しい。

 

今、年齢を重ねることにわりと肯定的です。

それはたくさんの人たちに成長させてもらったからであり、かつ、ネガティブイメージがなくなったから。私の周りには年上の方が多くて、私よりもっと素敵に人生を彩ってる方が多い。楽しく素敵に生きてる人たちを見て、あぁ、年を取ることってネガティブなことじゃないんだな、って思えた。ありがとうございます。

後悔とかはまあ……いっぱいあるけどね、後悔は先に立たないし覆水は盆に帰らないし吐いた唾は飲めない。受け入れて生きていくのが、人生なのかな。

 

 

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少しだけ息継ぎ。

残りの余生はまだ何十年もあるよ、長いなあ。

理想になりたい自分と理想に疲れた自分、どっちも可愛い、だなんて自分を許せるか悩むのが、これからの生き方になってくるのかな……。

次の節目の頃の私は何してるかな、なんて、生きたようにしかならないよね。この先の私もまだまだ幼いし、恥ずかしいんだろうけど、残りの人生を好きに生きていいよ。そのかわり、美味しかったって満腹のお腹さすっててね。

 

私の宝物の話

 

大事にしていたものに別れを告げた。

今まで何度も言葉にした「ありがとう」の価値を下げるわけではないが、

昨夜の「ありがとう」は、今までで一番心から言えたと思う。

 

ただのゲームだ。

なくても困らない、その存在を知らない人すらいる、決してメジャーではないただのゲームの話だ。それでも私にとっては、宝物のように大事なゲームだった。

「そんなゲームあったっけ?」「あのクソイベントのゲームでしょ」「ゲーム性が悪かった」マイナスの反応が多いそんなゲームを私はずっと愛してたし、今も愛している。

 

はじめたのは五年前。

終了したのは二年前。

たった三年間のその期間は、私にとって本当に大事な日々でした。

 

 

 

少しね、思い出を書いていこうと思う。

 

五年前、当時の職場から一番近いゲームセンターにそのゲームが入荷したんだ。

私の周りはそのゲームジャンルが好きな友人が多くて、ゲームセンターはよく行ってたんだけど、

みんなのいう「メインジャンル」というものが私にはずっとなかった。

そのころはとくに待ち合わせなんかしてなくても、会社帰りに「〇〇でゲームなう」ってツイートしたら、ゲームセンターに友人が立ち寄ってくる。逆もある。

一緒にプレーすることもあるけどだいたい好きなものを好きなようにプレーして、遅い時間になってなんとなく示し合わせたようにラーメンとかファミレスとかに連れ立ってご飯を食べて解散。
そういう日々が好きだった。

でも、プレーするゲームがないときが多々あった。
そのときハマってたゲームはあったけど、当時このゲームセンターでは順番待ちが発生することが多くて、私は友人が遊んでいる間、時間を持て余していた。

いろんなゲームがあったんだけどね。


そのゲームセンターは真剣にプレーしてる人が多かった。夢中で、次こそクリアするぞ、あれに挑戦するぞ、そうやって心底楽しんでプレーする人が多かった。(実情は違うかもしれないけど、私にはそう見えてた。)
それを邪魔できなくて、そこまでそのゲームに対して熱量のない私が物見遊山でプレーするとその人が待たないといけない、そう思ってしまって、なんとなく手持無沙汰な時間があった。

 

そんなときに新規入荷として出てきたのが、後に私が大好きになるゲームだった。

8台。なんと8台入荷。太っ腹の8台。
他の人との熱量の差を心配しなくて済むし、誰の邪魔もしない。そんな存在は、私の恰好の遊び相手になった。

ただ「空きがある」台だからと始めたゲームなんだけど、やりはじめたらびっくりした。プレイ感すら私にとって楽しいゲームだったから。

そもそも私はボタンに慣れなくて、タッチパネルが好きだったんだけど、そのゲームもタッチパネルだったし、腕が細かったから画面見づらいなんてこともなかった。
プレーできるものはちょっと偏りがあったけど、全部楽しかったんだよ。

悲しいことでもあるんだけど、このゲームセンターでこの台が満員になることはほとんどなかった。一回だけは見たことあるかな。(後述するけど、あのイベント中は満員だったんじゃないかな。)
だからこそ、ずっとプレーできた。低いレベルをフルコンだとか〇割クリアとかで解禁していく称号のようなものもあって、当たり前に上達の道があった。

夢中で、次こそクリアするぞ、あれに挑戦するぞ、そうやって心底楽しんでプレーする、そんな熱量のプレーヤーに私もなれたんだと思った。

それは当たり前のように私の居場所になった。

スマートフォンの写真フォルダはほとんどゲームのリザルトの写真だった。
愛車ではそのゲームのためにセットしたプレイリストをずっと流してたし、
仕事いくときも通院するときも家族と出かけるときも、ずっとそのプレイリストを聞いていた。

 

それから少し後に色々あって、入院することになったんだよ。
入院する直前まで車を運転してゲームセンターに通ったよ。
その頃は会社も退職してたし、駐車場のある違うゲームセンターに通ってた。
冬の真っただ中、帰り道の冷たいハンドルをよく覚えてる。
車内があったまるまで、その曲を聴いて、その動画を見てた。

その時はすぐ退院して、またゲームセンターに通い続けてつかの間の楽しい時期を過ごしてたけど、
やっぱりだめで、また入院することになった。今度は長期。
週に一回は抜け出してそのゲームをしにいったよ。許された外出のほとんどゲームセンターに使った。必要な買い出し以外全てって言ってもいい。
唯一の息抜きだった。iPadに動画は入れてたけど、親に頼んで暇つぶしの本もかなり持ってきてもらってたけど、全然満たされなくて。
家族にかなり心配かけてたのに、なんて自分勝手なんだろうね。これは反省点だな。


だんだん暑くなってきたころ、やっと退院した。
私の愛車はもう暖房じゃなくて冷房になってたし、入院中兄がメインで運転するようになってお気に入りのプレイリストは流れなくなった。

まあ、退院したらから働かないといけないわけで、その一か月後には就職で上京した。

新しく住み始めたところは、まーーーーーーーゲームセンターから縁遠い土地だった!
たまに街に出たときにしかできなくなって、そのゲームから、というかゲームセンターから離れた日々を送ってた。
(その時は他に好きなジャンルもあったしね)

そしたらあのイベントがはじまったんだよ。
ワクワクしたよ。全機種連動イベントで、あのほとんど満員にならなかったゲームをみんなプレーしてくれる、そのゲームが合わないって言ってた友人もプレーしてくれてそのゲームの話ができるようになる!そう思った。

できる限りゲーセンに通うようにした。毎日は無理だったけど、私もイベント進めたいし。写真フォルダは再びそのゲーム写真ばっかりになった。(今度はリザルトじゃなくて、イベントの進捗みたいな写真だったけど。)

この時、初めてそのゲームに対する純粋な暴言を聞いたよ。
「あんまり楽しくない」「自分には合わない」「ちょっとねー…」くらいの話は今までも聞いてたけど、「クソゲー」「なんでこんなクソイベにしたんだ」「捨てゲーしてる」なんてものを山ほど見かけた。

確かにね、楽しくない人からしたら苦痛を押し付けられたようなものだったんだろう…。
ガラガラだった台に初めて並び列の立て札ができたし、連日満員だった。その光景はうれしかったけど、最短プレーの捨てゲーが基本になってしまって、普通にプレーしてる人が選曲時間とかプレー時間に白い目で見られることはザラだった。

このゲームをより一層固執して好きになったのも、このときの「不憫で」という感情からきてるのかも。

 

イベントが終わって、アップデートしたゲームは、私のプレーしやすい環境に戻っていった。
プレーヤーがイベントから解放されたからね。行列は見なくなった。
でもイベント効果なのかアップデート効果なのか、ガラガラではなくなって、プレーしてる人が前より増えてた!
偏ってた曲もかなり改善されたしね。嬉しかったな。
ただ、アップデートしたころには、かなり台数が減った店舗が多かったな……。だから人が増えたように見えたのかな。

私もゲームセンターにいく頻度がまた下がって、たまに行ったらたくさんプレーして、そんな日々を過ごしてた。
気が付けば新居は更新の時期で、私はゲームセンターからの距離を優先して新居を探した。ゲームセンター徒歩三分のとこに住んだよ。

その頃は他のゲームもプレーしはじめてた。友達の影響でだけど、全機種連動イベントでプレーする心的ハードルが下がってたっていうのも一因。

「楽しい」がそろったこのゲームセンターの居心地は本当に最高で、楽しくて仕方なかった。

 

でも突然の予告で、ゲームはいついつまでって言われて、
二年前の夏に稼働終了しました。

 

長くなったね。ここまでがこのゲームの思い出。
短い3年。

入院なんかしてないでもっとゲームをプレーしてたら、
どんなに遠くても毎日ゲームをプレーしに通ってたら、
他のゲームなんかせずにずっとプレーし続けたら、
まだあったのかなって後悔をいまだ持ってる。
たぶんあんまり関係ないんだけどね。私一人の行動で変わる未来じゃなかった。

 

大好きだったな。
「そんなゲームあったっけ?」「うっわそんなんあったなぁ」「なんであんなんがいいんだよw」
って、からかう人はいたし(今もいるけど)、私はそのたびにすごく不愉快だった。
「うるさい!私は復活待ってるの!」そんな頑なな態度だった。

(もちろん冗談でいう人もわかってるし一連の流れだったから、恨みとかそういうのは全然ちがうよ。)

 

前置き……でもないけど、この結論にくるまで時間がかかっちゃったな。


昨日、イベント出演の場をいただいて、このゲームについて語る時間をいただいた。
60分も!

話をもらってからすぐ準備してたし、当日出番直前までプレゼンを修正・追加してたよ。音量チェックとか画面表示チェック画面は当日に追加しました。

 

そのイベントは「死にゲー特集回」でした。

長らく「うるさい!私はまだ待ってる!終わってない!」と頑なだった私が、初めて、「終わったゲーム」として向き合った。

 

すごく満足のいく結果だったんだ。
みんな笑ってくれて、冗談とかからかいもあるけどそれはちゃんと聞いてくれてるからで、緊張はすごかったけど、ここで私はやっと「自分で幕を引く」ことができたんだ。


終わってからの二年間、曲を聴くと、動画を見ると、譜面を見ると、キャラクターを見ると、心の中がなんかに圧迫されて泣けてきてしまうことが多かった。
少し前に和歌山の友人のイベントにいったんだけど、そこでテーマソングがかかって、私ずっとぼろぼろ、いやダバダバーー!ってレベルで泣いてた。(その説は本当にありがとうございました。)
そんな私がだ、昨日は泣かなかったよ。

昨日終わってから「弔えた」って言葉が自然に出てきて、それが今しみじみと私の中に広がってる。うん、あれは弔いだった。
さよならは言ってないしありがとうとばかり言ってたけど、間違いなく、お別れだった。

 

「そんなゲームあったっけ?」
って、たぶんまたこれからも言われるけど、そうなんだよ、すごく楽しいゲームがあったんだよ!って、今日からは言えると思う。
ちょっとはムッとすると思うけどね!

 


さて、長くなってしまった。

この話はここで終わりにするけど、私はこれからもビートストリームが大好きだよ。

また会えたら。
また遊ぼうね。ばいばーい!

 

 

 

 

 

思えば

なんだか過ぎる日が早いのと、ここ最近はすっきりしているので間が空いた投稿になってしまった。

 

先日、親友に「井上も人の目線気にするんじゃね」と言われた。

思えば、自分は昔から誰かのために生きたことなんてなかった。私がいないとダメみたいなものはなくて、もちろんバイトとかで私しかいないんだっていうタイミングは多くあったんだけども、基本的に私が必要とされることもなく、ただ自分のために金を稼いで生きて遊ぶ、それが当たり前だった。

 

いつの間に弱くなったのか。頼れるものなんていらない、自分で立つんだ、という意識が全くない、なんだこの体たらくは。

最近は自分の機嫌を取ることにばかり熱を上げている。そんなことは当たり前じゃなかったのか。そもそも弱音を吐いていい場所を探すことじたいがみっともない行動だと恥じる私でありたい。私の身の置き場所は、もっと高いところにありたい。

 

「私の納得できる私」のレベルが低すぎる。筋肉は必要がなければ発達しない。理想を高くして、そこにのぼらないと、弱くなっていくばかりな気がする。少し自分を鍛えなければ。 

 

 

理想図

少し答えが出たと思ったので付け加える。

 

①理想の私を追い求めること

②理想の環境を追い求めること

 

の、二つが必要なのでは? 自分が許せる環境に身を置き、許せないものはバッサリ捨てていけばいいのだ、それは許されている。当たり前だよ嫌なことして生きてなんていけないし。ただ全部自分勝手にしていいわけではなくて、「妥協しないといけない付き合い」は切れない。それはそれで「妥協を許せる」相手ということなので、そいつは私の周りの環境に置いておいてもいい。

なんていうかもっと気軽に人を捨てていこうと思った。捨てて良いんだ。いらないものを大事に持ってても意味がないのよ、大事に大事に抱えてゴミ屋敷を作るのだってそれも生き方のひとつだけど、私はちゃんと綺麗な部屋で呼吸したい。

誰かを批判しないけど、私はそれを選ばない。私の生き方をする。していい。

いい女の定義の話→自分がどうなりたいかの話

「素敵な人間になる」ことを信条としているが、ふと「いい女になる」ことも近いものではないのか?と思い至ったのでアウトプットする。

 

 

  • 素敵な人間になる

これはわりとわかりやすく、自分が認めるもの・自分の理想に近づきたいための自分磨きといえる。ここに「他の視点」の存在はなく、私の今まで生きて培ってきた常識とか出会った素敵なものとかが詰め込まれたもの。

 

  • いい女になる

これです。これは「他の視点」があって成立する。承認欲求のために目指すものと言い換えることもできる。

 

 

さて、その定義をした上で、じゃあ理想とすべきはどちからという話だ。

ここ最近の私は後者を意識しているように思う。意識していた行動ではないが、あの女と比べていい女に、あの人に愛されるいい女に、そういった「他の視点」を意識した自分磨きをしていた。

昔の私はその逆で、他の視点を意識していなかった。「自分から見て魅力的に思う自分に、自分のためになろう」としていた。他の人から認められる必要はなかったし、なんなら世界に他の人がいる必要がなかったからだ。

どちらでいる「べき」といった定義はとくに存在してないし、なんなら誰かが答えをくれるものではなくて、自分で決めないといけないものなのだと思うが、それでも私がなりたいのはやはり「自己完結する素敵な人間」の方なのだと思う。最近は人目を意識しすぎた。

 

少し話がずれるけど、元カレの話をしたい。

元カレはクソだった。自他ともに認めるクソだった。私が自立(自律ともいえる)しなければ自分も退化し、生活は荒れる一方で、人間的魅力も盛大に失われていたと思う。「こいつと私は違う、私の方が上だ」という優位感に恋して付き合っていた部分もあったのかもしれない。あるいは「こいつは私がいないとダメなんだ」的な自己暗示か。つまるところ、当時の私が欲しかったのは「私に気持ちよくマウント優位を提供させてくれるクズ」だった。そして相談を名目に誰かに言うことで「井上は間違ってないよ」と更に天狗の鼻を高くしてくれる存在だった。それに気付くのが今だというのは情けないことなんだけれども。

ただ、それは健全ではなかった。気持ちよかったが、幸せではなかった。幸せではないことに気付いたのは、或いは幸せのハードルを自分で低く設定してしまっていたことに気付いたのは、「愛されたい」と思ったからだと思う。

今の私は幸せになりたい。評価される人になりたい。だが、そうやって生きてみて、やはりそれも歪んでいる気がする。ここ最近の私は満たされないと喚いてずっと泣いてる。自分に厳しくした反動か、自分に甘い。「こんなに我慢してきたんだから、甘えていい人に甘えて何が悪いのか」なんて免罪符をたぶん勝手に抱えている。

 

誰も答えなんてくれないし、そもそも誰かの答えになんて納得したくないし、どちらが私のためになるかなんてやっぱり自分で考えるしかないからここで結論を出したい。

私は、特定の誰かに好かれるための自分ではなく、自分が愛せる自分を目指したいと思う。人に依存なんて情けない生き方を許容する私でいたくない。ただ、それは優位性を選び続けるのではなく、もっと、健康にある必要があるが…それはまだわかんないから、せめて失敗の道を選ばないでみるというトライアンドエラーの繰り返しかなと。

「うまくやって」なんて提案は結局「俺に被害を及ぼさないで勝手に解決して」という匙投げなのだ。

私は魅力的な女になる。私がいいと私を選ばれるようになる。私に都合よくない男なんかいらないと思える人間になりたい。みっともない男なんていらないんだ。それを当面の目標にしたい。

インターネットには宗教がある。

 

話のさわりとして、まず自分の宗教を説明したい。

Twitter、ブログなどの匿名SNSはインターネットであり、インターネットは仮想空間であり、私という人間に何ら影響を及ぼすものではなく、何を書いても自由である。

鍵アカウントはあくまで他の鍵アカウントにしている人のリプライをすることをメインに、あとは、「メインの居場所」に悪影響を与えそうなツイートとか、公にできないことを書く場所だったり、嫌いな人間には見られたくない部分を見せる場所だったりする。

ここではこの宗教を「インターネットは非現実宗教」と呼ぶことにする。

 

 

対立するライバル宗教には、「インターネットは超現実宗教」がいる。

インターネット上のすべてのコミュニケーションツール、SNSがメインの居場所であり、生活空間であり、そこでできた関係性がなくなることは自身の現実に深く影響するため、責任を持った発言しかしてはならない。

鍵アカウントは責任を持てない発言が唯一許される場所であり、信頼をしている数人にしか見せない。そこそこ大きな秘密を書くことで、鍵アカウントという「わたしたちだけのひみつね」といったような中学生女子にありがちな秘密の共有から生まれる友人意識を持つための場所として扱っている。

 

 

たとえば有名な人。自分の現実世界での知名度を理解した上でその自分をインターネットでも宣伝したいという人は「インターネットは超現実宗教」、もうめんどくさいから略すけど「超現実宗教」の人だ。

そうではなく、ただの一個人だったり、一個人の人格をインターネットに形成している人で、自分のメインの場所が他にあり、インターネットは自分の居場所とは違う場所であると認識している人は「非現実宗教」の人。

言い逃れに書いておくけど、もちろん細かく枝分かれする場合もあるし、人を枠にはめ込むなんて不可能だからこれは大雑把な分け方でしかない。が、だいたいのインターネットユーザ、あるいはSNSユーザはこの2つの宗教にわかれているだろう。

 

 

ここで、なぜ「宗教」と呼ぶかについても説明したい。

単純に、どちらの宗教に属している人も自分のインターネットの使い方以外を受け入れられない人が多いからだ。そして、強要しがち。

「愚痴ツイートはよくないからやめたほうがいいよ(超現実宗教)」「鍵垢だからってそんな個人情報かかないほうがいいよ(非現実宗教)」「バカに見えるようなこと言うなよ(超現実宗教)」「嫌われても別によくない?(非現実宗教)」

例をあげるとこんなかんじ。

私はどうしても非現実宗教だからこちら側の肩を持った発言をしてしまうんだけど、鍵垢だからって秘密にすべきことは誰にも言うなよと思うし、人を嫌っても嫌われても別にいいのだ。(インターネット上は人を攻撃しても良い、という論ではなく、インターネット上で誰からも嫌われない発言をしようと言葉を選ばなくて良い論。付き合いたい人、付き合いたくない人を選べるのがインターネットだ。)でも正直押し付ける気はない。「俺は勝手にやるからお前も勝手にしろ、住む世界が違うんだよ」と言いたい。

ただ、この宗教観がユーザの間で浸透していない。あいつはちゃんとやってるのになんでお前はこうなの?私たちはこう使ってるのにあなたはなんでこうしないの?と人を責めがち。強要しがち。ふたつの宗教があるとわかっていれば、違う宗教の人は自分とは別物として考えることができるのに。暴論だけど、私もそれに気付くまでは「お前インターネット向いてないよ、やめたほうがいいんじゃない?」とさえ思っていた。

 

インターネットはどちらの宗教も誤りではない。単に自分の居場所をインターネットに置くか現実に置くかの違いでしかない。(インターネットに居場所を置く人間はリアルで居場所のなかった人間だ、という感性は現代ではもう通用しない。インターネットは生活空間化している。)

非現実宗教、超現実宗教のどちらもが入り混じった姿もインターネットだと思うし、やめるべき、こうするべきなんてものをインターネットに求めることが間違っていると思う。

 

 

自分の隣に今いる人が、話をしているのが、フォローしている人が、どの宗教の人間かを見極めて接していく時代なのだと思う。

 

ドキドキの価値

それが何かわかって安心して買えるリスクのないものにしかお金を払わない文化ができてるっていう音楽の話題を最近見た。最近はyoutubeとかspotifyとか、配信された音楽で満足して購入に至らないらしい(spotifyやAppleMusicなんかはサービス料が発生してるけど)。

確かに音楽にそこまで関心のない人はそれで満足するし、購入まで至るのはよっぽどその対象が好きだから。私も大好きなアーティストのCDはジャケットから曲順、歌詞カードのフォントとか装丁とか、帯の文言とか、そういうの含めて全部味わいたいから購入する。そうでもない「なんか気になるなぁ」程度では購入に至らないのが現実だ。幸か不幸かクリエイト側の人間が周りに多いのでこんなところに書き捨てるしかできないんだけど、私はあなたたちの作品を金出して装丁から曲順から味わいたいほど求めてないよ。(だからって必要ないとは言わない、これ食べたいって熱望して行くラーメン屋さんには当然お金出すけど、そこまで好きじゃないお菓子だって手元にあったらつまむでしょ。)。

 

言いたいことの本題はここからで、上述のように自分にとって価値があるものに対してお金を払うのは当然だけど、自分にとって価値がないからお金を払わないのは当然ではないと思う。

音楽に関わらず、無料展示されている作品や、ゲームの攻略、最新情報だって、本当は適当に消費していいものではない。

無料展示されている作品にだって展示順、ライティングも考えてるだろうし、その演出が作品をより感動的にすることだってある。ゲームは最初のドキドキ感、ワクワク感も魅力の一つ。どこかの会場限定で明かされる〇〇の続編が開発開始か!?みたいな最新情報だって、私にたどり着いていい情報なのかというと違うと思う。

そういうライブ感のような魅力を求めてないとか、遠征する価値がないとか、ゲームは効率的にやりたいとか言う人がもしかしたら今の主流なのかもしれない。クリエイト側の人間が細部までこだわってるのをわかってても、消費側の人間はさほどファンでもない限り好んで消費しようと思っていない。(人間の豊かさとか貧しさの話をするつもりはない。)

 

うまく話をまとめられないなー。どうせ読み返す度に恥ずかしいからのんびり推敲します。

 

自分が得られる情報は価値のある情報なんだからちゃんとその価値は自分で守ればいいのにって思っただけ。無料で消費できる状況が当たり前になってるバカな消費者が問題とよく言われるけど、情報を無価値にしてバカに消費させてるのは購入者の方(一部とはいえ)。お金は回してこそ価値がある。なんでもかんでもSNSでシェアする文化の失敗点。

無情報で買う音楽とかゲームとか、楽しめるのに楽しもうとしない人間が多い。失敗だったとしても失敗がないと成功の価値が下がるだけなのに、魅力を感じ取る視力を自分で下げておいて偉そうに批評してる。最初から90点以上しか食べたことない奴らが見下す対象を増やしてマウントとってるけど、酸いも甘いも知らないでうまいまずい言ってんの恥ずかしくないんか。

 

まあSNSで正しい対価を求めてるの、同人作家とか漫画家の声しか聞こえてないけど。