反省文(としか言いようがない)

多分いつかスクショを取られて回付されるのだと思う。

 

自分の考えが幼い自覚はあるが、自分が正しいと思ったことを信じて生きてきた。

自分が大人だと思うとき、その目の前には子供がいる。逆もしかり、自分が子供だと思うとき、その目の前には大人がいる。大人と子供なんて言葉は比較に使う言葉であり、そのものを表す言葉ではない。

そのときそのときで練り固めた正論は、ある一方からは子供の戯言にしか見えないし、逆からは大人の理論と見えている。果たして今の私はどこにいるのだろうかと、その自問自答に意味がないことをわかった上で思わずにはいられない。

 

できれば、大事にされたい。子供の戯言だとして、大人の理論だとして、そのどちらであっても大事にされたい。正論でボコボコに殴られるのも、下を見て自分を慰めているのだと笑われるのも嫌だ。「私がそう思う」を肯定してほしい。

 

「私がそう思う」を肯定するのは難しい。思うだけなら誰でもできるからだ。這って喋って立って歩いて生きることを褒めるのは愛情がある相手だけであり、腹を痛めた母だけが「ミルク飲めたね、えらいね」「立てたの、えらいね」「宿題できたの、えらいね」と肯定してくれる。

 

結局は無条件に甘やかされたいのだと思う。

自分を甘やかしてあげられるのは自分だけだ。何があっても裏切らないし洩らさない。欠席の仕様がないから、裁判もない。

 

いつかスクリーンショットで欠席裁判を受ける私の正論は、最初から敵陣の中にいることに気付いていなかっただけ。理解者は自分だけでよかったのに。