いい女の定義の話→自分がどうなりたいかの話

「素敵な人間になる」ことを信条としているが、ふと「いい女になる」ことも近いものではないのか?と思い至ったのでアウトプットする。

 

 

  • 素敵な人間になる

これはわりとわかりやすく、自分が認めるもの・自分の理想に近づきたいための自分磨きといえる。ここに「他の視点」の存在はなく、私の今まで生きて培ってきた常識とか出会った素敵なものとかが詰め込まれたもの。

 

  • いい女になる

これです。これは「他の視点」があって成立する。承認欲求のために目指すものと言い換えることもできる。

 

 

さて、その定義をした上で、じゃあ理想とすべきはどちからという話だ。

ここ最近の私は後者を意識しているように思う。意識していた行動ではないが、あの女と比べていい女に、あの人に愛されるいい女に、そういった「他の視点」を意識した自分磨きをしていた。

昔の私はその逆で、他の視点を意識していなかった。「自分から見て魅力的に思う自分に、自分のためになろう」としていた。他の人から認められる必要はなかったし、なんなら世界に他の人がいる必要がなかったからだ。

どちらでいる「べき」といった定義はとくに存在してないし、なんなら誰かが答えをくれるものではなくて、自分で決めないといけないものなのだと思うが、それでも私がなりたいのはやはり「自己完結する素敵な人間」の方なのだと思う。最近は人目を意識しすぎた。

 

少し話がずれるけど、元カレの話をしたい。

元カレはクソだった。自他ともに認めるクソだった。私が自立(自律ともいえる)しなければ自分も退化し、生活は荒れる一方で、人間的魅力も盛大に失われていたと思う。「こいつと私は違う、私の方が上だ」という優位感に恋して付き合っていた部分もあったのかもしれない。あるいは「こいつは私がいないとダメなんだ」的な自己暗示か。つまるところ、当時の私が欲しかったのは「私に気持ちよくマウント優位を提供させてくれるクズ」だった。そして相談を名目に誰かに言うことで「井上は間違ってないよ」と更に天狗の鼻を高くしてくれる存在だった。それに気付くのが今だというのは情けないことなんだけれども。

ただ、それは健全ではなかった。気持ちよかったが、幸せではなかった。幸せではないことに気付いたのは、或いは幸せのハードルを自分で低く設定してしまっていたことに気付いたのは、「愛されたい」と思ったからだと思う。

今の私は幸せになりたい。評価される人になりたい。だが、そうやって生きてみて、やはりそれも歪んでいる気がする。ここ最近の私は満たされないと喚いてずっと泣いてる。自分に厳しくした反動か、自分に甘い。「こんなに我慢してきたんだから、甘えていい人に甘えて何が悪いのか」なんて免罪符をたぶん勝手に抱えている。

 

誰も答えなんてくれないし、そもそも誰かの答えになんて納得したくないし、どちらが私のためになるかなんてやっぱり自分で考えるしかないからここで結論を出したい。

私は、特定の誰かに好かれるための自分ではなく、自分が愛せる自分を目指したいと思う。人に依存なんて情けない生き方を許容する私でいたくない。ただ、それは優位性を選び続けるのではなく、もっと、健康にある必要があるが…それはまだわかんないから、せめて失敗の道を選ばないでみるというトライアンドエラーの繰り返しかなと。

「うまくやって」なんて提案は結局「俺に被害を及ぼさないで勝手に解決して」という匙投げなのだ。

私は魅力的な女になる。私がいいと私を選ばれるようになる。私に都合よくない男なんかいらないと思える人間になりたい。みっともない男なんていらないんだ。それを当面の目標にしたい。