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インターネットには宗教がある。
話のさわりとして、まず自分の宗教を説明したい。
Twitter、ブログなどの匿名SNSはインターネットであり、インターネットは仮想空間であり、私という人間に何ら影響を及ぼすものではなく、何を書いても自由である。
鍵アカウントはあくまで他の鍵アカウントにしている人のリプライをすることをメインに、あとは、「メインの居場所」に悪影響を与えそうなツイートとか、公にできないことを書く場所だったり、嫌いな人間には見られたくない部分を見せる場所だったりする。
ここではこの宗教を「インターネットは非現実宗教」と呼ぶことにする。
対立するライバル宗教には、「インターネットは超現実宗教」がいる。
インターネット上のすべてのコミュニケーションツール、SNSがメインの居場所であり、生活空間であり、そこでできた関係性がなくなることは自身の現実に深く影響するため、責任を持った発言しかしてはならない。
鍵アカウントは責任を持てない発言が唯一許される場所であり、信頼をしている数人にしか見せない。そこそこ大きな秘密を書くことで、鍵アカウントという「わたしたちだけのひみつね」といったような中学生女子にありがちな秘密の共有から生まれる友人意識を持つための場所として扱っている。
たとえば有名な人。自分の現実世界での知名度を理解した上でその自分をインターネットでも宣伝したいという人は「インターネットは超現実宗教」、もうめんどくさいから略すけど「超現実宗教」の人だ。
そうではなく、ただの一個人だったり、一個人の人格をインターネットに形成している人で、自分のメインの場所が他にあり、インターネットは自分の居場所とは違う場所であると認識している人は「非現実宗教」の人。
言い逃れに書いておくけど、もちろん細かく枝分かれする場合もあるし、人を枠にはめ込むなんて不可能だからこれは大雑把な分け方でしかない。が、だいたいのインターネットユーザ、あるいはSNSユーザはこの2つの宗教にわかれているだろう。
ここで、なぜ「宗教」と呼ぶかについても説明したい。
単純に、どちらの宗教に属している人も自分のインターネットの使い方以外を受け入れられない人が多いからだ。そして、強要しがち。
「愚痴ツイートはよくないからやめたほうがいいよ(超現実宗教)」「鍵垢だからってそんな個人情報かかないほうがいいよ(非現実宗教)」「バカに見えるようなこと言うなよ(超現実宗教)」「嫌われても別によくない?(非現実宗教)」
例をあげるとこんなかんじ。
私はどうしても非現実宗教だからこちら側の肩を持った発言をしてしまうんだけど、鍵垢だからって秘密にすべきことは誰にも言うなよと思うし、人を嫌っても嫌われても別にいいのだ。(インターネット上は人を攻撃しても良い、という論ではなく、インターネット上で誰からも嫌われない発言をしようと言葉を選ばなくて良い論。付き合いたい人、付き合いたくない人を選べるのがインターネットだ。)でも正直押し付ける気はない。「俺は勝手にやるからお前も勝手にしろ、住む世界が違うんだよ」と言いたい。
ただ、この宗教観がユーザの間で浸透していない。あいつはちゃんとやってるのになんでお前はこうなの?私たちはこう使ってるのにあなたはなんでこうしないの?と人を責めがち。強要しがち。ふたつの宗教があるとわかっていれば、違う宗教の人は自分とは別物として考えることができるのに。暴論だけど、私もそれに気付くまでは「お前インターネット向いてないよ、やめたほうがいいんじゃない?」とさえ思っていた。
インターネットはどちらの宗教も誤りではない。単に自分の居場所をインターネットに置くか現実に置くかの違いでしかない。(インターネットに居場所を置く人間はリアルで居場所のなかった人間だ、という感性は現代ではもう通用しない。インターネットは生活空間化している。)
非現実宗教、超現実宗教のどちらもが入り混じった姿もインターネットだと思うし、やめるべき、こうするべきなんてものをインターネットに求めることが間違っていると思う。
自分の隣に今いる人が、話をしているのが、フォローしている人が、どの宗教の人間かを見極めて接していく時代なのだと思う。